登米市豊里町二ツ屋地区の由来と「けの汁」

登米市豊里町二ツ屋地区は、天保の大飢饉(1833年~1836年)という極限状態の中、南部藩(盛岡藩)より命懸けで関所破りをし命を繋ぐために逃れてきた人々を、登米の殿様伊達長門宗光公は罪人として裁くのではなく「足軽」として召し抱え土地を与えた。住まいは2戸で定住し(現、伊藤家、佐藤家とも言われています)地名は屋根も二ツだったことかから「二ツ屋」となったと言われています。天保の飢饉の困難を乗り越え生き抜き、南部藩の歴史と文化を引き継ぎ、南部藩の郷土料理である「けの汁」は、移住した先祖の苦労を忘れず、感謝を込めて作られ、正月16日に墓前にお供えされる大切な行事として受け継がれている。その後、生活も落ち着き報恩感謝の気持ちが芽生え喚山神社が建てられここに「伊達長門宗光公顕彰碑」があります。すべての情報や交通が川を通して行われていたことです。花巻,和賀,胆澤南部藩から希望を求めてたどり着いたのがここ豊里だったことです。ドラマを感じる石碑です。二ツ屋集落のみの伝統郷土料理「けの汁」の具材は、じゃが芋、人参、ごぼう、シイタケ、ワラビ、づいき、凍み豆腐など10数種類の保存具材を煮込み、現在は具材も味付けも各家庭で異なり、各家庭で持ち寄り味比べをしてしている。「けの汁」を囲み、味比べをする現在の光景は、先祖が夢見た「平和で豊かな暮らし」そのものだと言えるでしょう。

当時の換山神社